街角情報連絡板
千里山のイベント・スケジュール
年代 エポック 詳細情報 資料
明治以前 大正 昭和 平成以後
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1896年
明治29年

一帯が三島郡となる 古くより一帯にはもともと三島郡(ごおり)の名があり、途中に島上(しまのかみ)・島下(しまのしも)に分かれ、後に後水尾天皇寛永年中に島下郡に一定されますが、明治29年に三島郡に改められました。
『千里村誌』
山内平三郎編著
(昭和7年刊 )
       
1889年
明治22年
千里(ちさと)村誕生

大字佐井寺
大字片山

町村制の施行により佐井寺村と片山村が合併し千里(ちさと)村となりました。両村は千里村大字(おおあざ)佐井寺・千里村大字片山と呼ばれました。
 旧佐井寺村と片山村 の中央にあった千里山(ちさとやま)にちなんで名付けられました。
千里山開発物語
和田昌充記載
(『千里山』5号〜10号)
       
  丘陵地の農山村でした 当時この一帯は桃・梅・柿・みかん・竹林・松林・水田・溜め池などが点在する丘陵地でした。  
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1921年
大正10年
北大阪電鉄の開通 国鉄東海道線の一部路線のつけ変えにより、放置されていた旧線路敷きを払い下げられ、それを活用し「北大阪電鉄」が十三・豊津間(4月)、豊津・千里山間(10月)がそれぞれ開通しました。 吹田に初めて走った電車
NPO法人資料
(平成18年編 )
       
1921年
大正10年
千里山住宅地の開発 大阪住宅経営株式会社(大正9年設立)が、北大阪電鉄より千里村大字佐井寺地区内の土地を譲り受け、大正10年中に千里山住宅地を開発し経営が始まりました。
千里山70年のあゆみ
千里山自治会
(平成2年刊 )
       
  郊外型の田園都市 大阪住宅経営株式会社は内務省の外郭団体であった都市研究会に田園都市の設計を依頼し、技師達は欧米諸国の特に英国ロンドン郊外の田園都市レッチワースの街並みをモデルに、噴水(当初は花壇のみで噴水は後から設置されました。写真は1966年尾崎雅一氏撮影)を中心として道路が放射状に並ぶモダンな街を創り上げました
 当時は大正ロマンと言われる、華やかで自由な気風と好景気の時代であり、それを支える振興サラリーマンの為の住宅確保が求められ、各地に企画開発されました。東京では田園調布が同じ頃に誕生しています。
 千里山住宅地の販売パンフレットである千里山住宅地平面図によりますと、電気・ガス・下水道完備という当時先進的なインフラを持ち、ロビー撞球設備などを備えた会館やテニスコートなども設置されていました。
販売パンフレット

第一噴水の石碑

近代日本の郊外住宅地
鹿島出版会
(平成12年刊 )

       
  山岡順太郎の貢献 千里山の街にとっては生みの親とも言える人物で、当時大阪商工会議所会頭であった氏は、大阪の産業発展の礎となる人材の確保と、その中産階級のニーズに合った魅力的な住まいを提供することを意図し、社会事業としての住宅経営を推し薦めました。 千里山住宅地はその一つとして開発されました。
 山岡順太郎は会頭をを辞して後に、新大学令発布に応じて法律学校であった関西大学を総合大学に昇格させるキーマンとして招聘され、大正11年に文部省により認可を受け、大正12年に氏は第六代学長に就任しています。
山岡順太郎胸像

『大阪春秋96号』
和田康由寄稿
(昭和11年編 )

関西大学を築いた人びと

       
1921年
大正10年
千里山遊園 関西大学の誘致とは別に、北大阪電鉄は電車開通に先行し、垂水の北・桃山の地に展望台や余興場となる遊園地「千里山花壇」を大正9年には開設し、枚方遊園と並んで大阪の一大行楽地として人気を集めました。そして大正10年に豊津から千里山への開通と共に花壇前駅を設け、遊園地への乗り降りに便宜を図っていました。さらに翌年続いて大学前駅を千里山駅との間に開設し、千里山線は多くの場所で、次の駅が見通せるほど短い間隔でした。花壇前駅はその後千里山遊園駅女学院前駅など幾多の名称変更が行われ、昭和26年花壇町駅になっていたところ、昭和39年に大学前駅と統合され現在の関大前駅に至っています。ちなみに日本一名前が変わった駅として知られています。また今でも関大前駅と千里山駅の間が、阪急全線の中で最短距離になっています。
  昭和6年に牡丹園を設置し、昭和13年には「千里山遊園」と改称、園内には日本で最初と言われた飛行塔野外音楽堂・ボート池・人工滝・小動物園などが設けられ、特に飛行塔は子ども達の人気の的になったようです。博覧会を開いたり、戦後は菊人形も一時催されましたが、昭和25年には閉鎖され、現在は関西大学の敷地に組み込まれ、幼稚園や小・中・高等学校があります。野外音楽堂であった場所には現在創立100周年記念会館が建っています。飛行塔のある当時の写真やパノラマ絵図が楽しい遊園地の面影を伝えています。
『関西大学通信』
第328号
       
1922年
大正11年
関西大学の誘致 明治19年(1886年)に前身である関西法律学校として開校されました。大正9年に北大阪電鉄の希望により、用地を拡張する条件で大阪府三島郡千里山に移転が決定し、大正11年千里山学舎が竣工しました。
  斡旋の労を取った人達には北大阪電鉄の創立発起人や大阪住宅経営の専務などに見られるように、鉄道建設と沿線の宅地経営や学校誘致・レジャー施設など一体となったプロジェクトであったようです特に学校誘致の場合は鉄道経営にとって、通勤とは反対方向の利用客を期待する面もありました。
 『千里山学報』第六号に「千里山付近を中心として存在する本学、北大阪電鉄及び大阪住宅経営の三者は、互いに兄弟的関係にあって、地理上、経営上その他各種の事情により、一体として緊密に結びつけられていると言っても差し支えない」と評されています。
関西大学の歴史
       
1923年
大正12年
関東大震災の影響 関東大震災の発生により、東京のビジネス拠点の多くが破壊され、大阪本社に東京から移転してきたサラリーマンが、お洒落で快適な郊外型住宅地として開発されたばかりの千里山に住居を構えることになり、当時の共同浴場では大阪弁と標準語のコミュニケーションが活発に行われたと言われています。現在も千里山の地域文化の中に、東京からのハイカラな生活文化の名残りが感じられる理由です。  
       
1925年
大正14年
千里山線の変遷 京阪電鉄は姉妹会社として新京阪電鉄を設立していましたが、大正12年から北大阪電鉄の事業を受け継ぎ、それまで一部着工されていたものを修正し、大正14年天神橋・淡路間を開通させました。天神橋を始発駅に千里山を終着駅とする千里山線の始まりです。
 その後、昭和5年に京阪電気鉄道 に合併され、昭和18年に阪神急行電鉄と合わせ京阪神急行電鉄になり、昭和24年に京阪電気鉄道が再び分離し、昭和48年に改称した現在の阪急電鉄の支線になりました。
 昭和36年から千里ニュータウンの建設が始まると同時に、千里山線は延長され、千里山駅は終着駅の機能を終え、呼称も阪急千里線となっています。



       
1926年
大正15年
千里山神社の建立 千里山の最高地に位置し、現在三角点(標高80M)が置かれる高台に千里山神社が建立されました。
  大阪住宅経営株式会社の矢野慶太郎専務が、千里山の氏神さん(守り神)として大正15年に京都の伏見稲荷神
社から「倉稲魂神(うがのみたまのかみ)」を勧請し、春姫大名神(白龍神)を併せ祀ったのが千里山神社の始まりと言われています。それまでは開発住宅地の千里山に氏神はなく、秋祭りなどには佐井寺の伊射奈岐神社から若者組が御輿を担いで来たと言われており、それまでの縁から伊射奈岐神も合祀しています。
 吉本興業の創始者である吉本勢さんが信仰を寄せていたことは有名で、縁りの芸人達の参拝姿もよく見られたそうです。
 千里山神社では年末年始の初詣に御神酒が振る舞われ、どんど焼きの行事、そして春祭には美味しいぜんざいも出て、自治会の人達や周辺住民の楽しみにもなっています。
千里山神社
千里山ホームページ
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1929年
昭和4年
千二小学校 平成14年に取り壊されるまでは、市内に唯一残る木造校舎がありました。佐井寺と千里山住宅地のほぼ中央にあたる松林の山を背にした谷間に、佐井寺の人が土地を提供し、北大阪電鉄が建設費を寄付して、8教室の木造校舎1棟が昭和2年に完成しました。
 昭和4年に旧講堂などと共に増築され、その時分校から千里第二小学校として独立しました。設立以降よりリベラルで教育熱心な父兄に支えられ、多くの学者や作家、芸術家や実業家などの逸材を排出しています。
 
       
1931年
昭和6年
大字千里山の誕生 大正時代の好景気が終焉し、世界経済が大恐慌に見舞われたのに呼応するかのように、満州事変が勃発し日本が敗戦に向かって一直線に進み始めた時代です。
 千里村の村会は、大字佐井寺の約一半並びに大字片山の一部を割いて、大字千里山の新設を全会一致で決議しました。 千里山住宅地の開発以来、千里山の名称が一般的に良く知られるところとなり、住民の増加や行政と通信上の必要から実施され、これとともに住所の表示の煩雑さも解消されました。
 
       
  昭和10年代から戦後 昭和10年代には、戦時体制下で建設資材の不足や地代家賃統制も行われ、住宅地開発などの余裕も許されなくなりました。電力統制により電鉄各社にも国策による合併などがあり、民生を多面的に圧迫する時代が戦後20年代まで続きました。
 一方、戦時疎開や大阪市街地の戦災から郊外居住が一般化し、次第に電鉄各社の沿線住宅開発が再開していきました。そして、住宅金融公庫の融資による建売り分譲住宅や、阪急電鉄による千里山域内の未処分保有地の宅地化も活発に行われるようになりました。

千里山駅ホーム
阪急フォトアーカイブ
       
1945年
昭和20年
太平洋戦争終戦の頃 昭和20年頃の千里山の図」が「千里山70年のあゆみ」に掲載されています。それを見ると噴水が5ヶ所あったということが分かりますが、現在は第一・第二噴水が残るのみとなっています。又、噴水は千里山住宅地の開発当初は花壇で、その後小さな噴水が作られましたが、昭和54年に大谷正雄氏により彫刻の噴水が寄贈され、現在のような姿で千里山のシンボルとなりました。
 糸田川の上流(現在はこの辺りは「上の川」と呼ばれています)では 、小鮒やドジョウ・ザリガニなどを獲り子ども達が水辺に遊び、上水道も地下水のミネラルウォーターだったことが分かります。周りには松山・竹林そして桃畑やミカンブドウ畑までありました。牧歌的な風景も多く見られたようです。
 まだ千里山遊園には飛行塔やミニ動物園などもあり、子ども達にとっては夢のように楽しい街だったのではないでしょうか。
千里山駅前俯瞰
       
1950年
昭和25年
千里山遊園の閉鎖 枚方遊園の菊人形が復活したのを契機に入園者数が減少し、千里山遊園が閉鎖され、関西大学の敷地に組み入れられました。  
       
1953年
昭和28年
千里寺本堂の移築 千里寺は昭和4年、千里山仏教会館としてスタートし、昭和21年現在の地に移り名も千里寺と改めました。
  本堂については、昭和天皇の即位を祝う大嘗祭のために京都御所に建てられたものを、昭和7年に関西大学に下賜され、「威徳館」として講堂および柔剣道場として使われていましたが、昭和28年に千里寺の本堂として改築されました。 内部の天井とシャンデリアはひときわ豪華で、宮殿建築の様子を彷彿とさせます。また千里寺は平成14年、文化庁の有形文化財として登録されました。
 千里寺に響き渡る梵鐘、寺報「如是」も地域のシンボルとして馴染まれています。2001年までは自治会・商店街主催で盆踊りが開かれていました。大晦日には大勢が集まり鐘突きとぜんざいを楽しみます。平成19年からは本堂で落語寄席「ちさと亭」も開かれます。
千里寺

千里山うろおぼえイラストマップ
田代しんたろう画

       
1956年
昭和31年
公団千里山団地 住宅問題の抜本的な解決のため、昭和30年に日本住宅公団が設立され、その大阪支社の看板団地として千里山団地が建設されました。桜並木の美しさは開花期のみならず、新緑や紅葉など四季を通じて住民に親しまれており、周辺にショッピングセンター(阪急千里山マーケット)や小学校を配するなど、初期の住宅公団を代表するものです。千里山駅を挟んで戦前の千里山住宅地と戦後の千里山団地が融合する、近代社会の歴史的な風景となりました。
 現在では建設後50年が経過し、建物の老朽化による団地の建て替え計画が持ち上がり、市民による懇談会を通じて、自然豊かで住みやすい今後の千里山のまちづくりが模索されています。
公団千里山団地

 

 

 

まちづくり懇談会

       
1962年
昭和37年
礼拝堂の再建 昭和23年に河邉滿甕牧師により、自宅を開放して始まった千里山キリスト教会は、昭和37年に現在の《シオンの丘》に礼拝堂や祈祷室・研修施設(シオンロッジ)などを建設しました。ヨーロッパの小さなまちの教会を想わせる敬虔な佇まいは、千里山の何処からでも見渡せシンボルともなっています。その後一度火災に遭いますが、直後の昭和45年には礼拝堂を再建します。聖書の基に集まろうという精神で、どの宗派にも属さない単立キリスト教会です。
 現在では、尖塔の見える礼拝堂でグルービーブルームど音楽祭なども行われ、第一噴水のクリスマスコンサートに合唱隊も参加され、千里山の原風景として一般住民にも親しまれています。
千里山キリスト教会
       
1962年
昭和37年
千里ニュータウン 戦後の経済発展と社会構造の変化を背景として、大阪の著しい人口増加への火急の対応が求められ、京阪神の中央に位置しながらも、まだ未開であった千里丘陵に注目が集まり、世界でも類を見ない大規模な都市構想が新たに実現されることとなりました。
 その後昭和45年(1970年)にかけて大阪万国博覧会をはじめ、新御堂筋や中央環状線、中国自動車道などの開通などもあり千里ニュータウンは一応完成しました。最近ではモノレール開通やバイオ関連集積戦略などを契機に、新都心構想も議論されるようになっています。
2006年『千里ニュータウン展』が吹田市立博物館で開催され、高度経済成長期を支えた人々の暮らしへの回顧展には、大勢の方が懐かしく足を運び大盛況でした。
千里ニュータウン
マンションレポート

千里ニュータウン展
(2006年)

       
1963年
昭和38年
千里山線の延長 千里ニュータウンの拡張に伴い、当初は千里山駅からバスにより通勤していましたが、昭和38年ついに千里山から新千里山(現在の南千里)まで路線延伸され、その結果千里山の北側では、永楽園地区が切り通しによって分割されることになりました。千里山駅が終点ではなく途中駅となり、一つの時代が過ぎ去り、本格的に成長と変革の時代が始まった感もありました。
 ちなみに現在の千里線は昭和42年に全線開通しました。
第一期延長工事
鉄道資料HP
       
1964年
昭和39年
名神高速道路 日本の戦後復興を内外に示した東京オリンピック開催を前にして、東海道新幹線と東名・名神高速道路が開通しました。
 名神高速道路は関西大学の敷地内をトンネルにより貫通し、何よりも千里山と円山町を分断する大きな変化を残しました。
 
       
1964年
昭和39年
第一中学校の移転 戦後の昭和22年に開校(吹田第一小学校の一部を借用)した吹田市立第一中学校は、昭和24年に千里山6丁目に移り(旧千里山中学校)、その後昭和39年に現在の校舎に移転してきました。
 旧千里山中学校の跡地にはその後総合スーパーのジャスコが出店し、千里山商店街もこうした時代の流れに大きな影響を受けることとなります。
 
       
1970年
昭和45年
大阪万国博覧会 大阪万国博覧会の開催は大阪や関西のみならず、日本の戦後復興と高度経済成長の勢いを、世界に示す出来事になりました。「千里」という名が全国区となったのもEXPO'70以降だと思います。千里山も当然その舞台となった「千里」の一部としての発展をしていきますが、往年の活気ある姿ではなく、北千里や千里中央などと比較して、どちらかと言えば落ち着きのある住宅地としての静かな発展を遂げていきました。
2007年秋に吹田市立博物館で『わたしと万博』展 が開催され大変に好評でした。それほどに全ての住民にとってもインパクトのある画期的なイベントでした。
わたしと万博
(2007年)

千里山開発物語
和田昌充記載
(『千里山』5号〜10号)

       
1979年
昭和54年
彫刻噴水の寄贈 第一・第二噴水に千里山西5丁目の大谷正雄氏により彫刻が寄贈され、現在のような美しい姿で千里山のシンボルとなっています。  
       
1980年
昭和55年
ロイヤルマンション 千里山の西玄関、新御堂筋の高架下からレッチワース・ロードに向かう坂道の両側に建ち並ぶモダンな建築群が、1980年竣工の千里山ロイヤルマンションです。斜面を利用して千里山の景観に馴染むデザイン、里道を取り込む自然豊かな共有スペースなど、建築家遠藤剛生の設計により第一回大阪まちなみ賞を受けています。  
       
1988年
昭和63年
阪急千里山駅の改築 長い間にわたり開発当初の面影を残していた旧千里山駅も、昭和63年に教会の尖塔を想わせる尖り屋根のある、グレー基調にグリーン&ピンクの窓枠があしらわれた、モダンでお洒落なイメージのものに建て替えられました。
 ステーションビルの千里山阪急ビルには、1Fの調剤薬局と2・3Fには各種クリニックがテナントとして入り、利便性の高い地域のクリニックセンターとしての機能も果たしています。
リニュアル前の駅
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1990年
平成2年
千里山70年のあゆみ 千里山自治会の編集により『千里山70年のあゆみ』が発刊されました。旧千里山自治会会員の高齢化などにともない、千里山住宅地の開発当時の記憶や住民意識の希薄化が懸念されることから、後世に語り継ぐ生活文化の遺産として、自ら編集に当たり纏め上げられました。
 「千里山.NET」でも編集者の許可を頂き、WEB版の形で住民の誰もがご覧頂けるものとして公開作業を進めています。
千里山70年のあゆみ
千里山自治会
(平成2年刊 )
       
1990年
平成2年
創立100周年記念会館 千里山遊園の野外音楽堂のあった場所に、平成10年関西大学創立100周年記念会館が建てられ、優れた都市景観の形成に貢献した建物に贈られる大阪まちなみ賞を受けました。中には会議室やホールなどの他に、「紫紺」という学内レストランが設けられ、バイキング形式のリーズナブルな価格ながら充実のメニューで、学生や教職員のみならず一般の住民も含め快適な交流の場となっています。  
       
1997年
平成9年
千里山会創立総会 1971年「千二校同窓生の集い」が行われて以来、1994年 「第1回・東京同窓会」などを経て、その後『千里山会』と改名、1997年 「第1回・千里山会 : 千里山会創立総会 」が開かれ今日に至り、その後毎年「千里山会」総会&懇親会が開催され、ゲストの講演や故保富庚午さん訳詞の『大きな古時計』をコーラスしたりと、遠く離れた千里山を想う一日となっています。
1998年 千里山会会誌『千里山』創刊号が発行され、以降毎年秋には千里山の想い出や会員の近況報告、或いは歴史研究や漫画連載など、多彩な内容の会誌が会員の手元はもちろん、地元の会友や図書館などにも届けられ楽しまれています。
千里山会WEBサイト
(2004年)
       
1998年
平成10年
第一噴水リニュアル 第一噴水のリニュアルに際しては、下に防火水槽が埋め込まれ、周囲に花壇とベンチが設けられました。クスノキなどは残されましたが工事後の緑は少ない印象でしたが、年を追うごとに木々の成長とツタの繁茂により、周りの喧噪から隠されて落ち着きのある憩い空間となってきています。
 年末のクリスマスコンサートやフリーマーケット「Rua Feliz(幸せの街路)」などのメイン会場として、また住民の日常の待ち合わせや交流の場として利用されています。
リニュアル前の噴水
       
1999年
平成11年
大丸ピーコック出店 地元住民や商店街との長い協議を経て、オープンしたスーパーマーケットで、目隠しの塀に囲まれた駐車場を広く取り、ワンフロアーだけの売り場構成の建物は、周囲の住宅を睥睨するほどの圧迫感を感じさせない配慮が見られ、現在では日常食品を求める人達で賑わっています。  
       
2000年
平成12年
レッチワースロード 千里山駅から第一噴水へと上る坂道から、緑地公園方面へと続くメイン道路が、名称公募によりレッチワース・ロードと名付けられ、区間を示す標識も立てられました。千里山住宅地が開発された当時、有名な英国ロンドン郊外の田園都市レッチワースをモデルとして構想されたことに因んでいます。
 平成17年に千里山まちづくり協議会のプロジェクトにで、ユーカリの木のベンチが設置され、朝日新聞などで紹介されました。
 
       
2001年
平成13年
街路灯の設置 レッチワース・ロードを始めとして裏通りまで街の安全と演出を目的に鋳物ランプ型の街路灯を設置しました。千里山の佇まいに調和する落ち着きのあるシックな街路灯です。合わせて看板も取り付け街の案内を分かりやすくしました。  
       
2001年
平成13年
中央市場の閉店 千里山団地完成の翌年に開設され、長く住民に親しまれてきた千里山中央市場が閉店し、平成15年には敷地内に高層マンションが竣工しました。突然に圧迫感のある建物ができ、駅前の景観に問題を生じましたが、1Fのショップ展開で新たな街の風景にもなってきました。  
       
2001年
平成13年
クリスマスコンサート 千里山商栄会主催により、住民の皆さんへ日頃の感謝を込めて、第一噴水に舞台を設けてコンサートが行われるようになりました。希望者に応じてステージ上で次々に繰り広げられる熱演に、寒さも忘れるほどの盛り上がりを見せます。歌あり演奏ありダンスありの2時間の合間には、ワインやコーヒーの差し入れ、子ども達へのクッキーのプレゼントなど嬉しい企画がいっぱいです。 音楽祭
       
2002年
平成14年 
ガイドマップ配布 千里山商栄会が千里山の全てのお店や事業所と公共機関を網羅したガイドマップを作成・配布しました。“夢・宙・遊・泳(ゆめそら)”のコンセプトを掲げ、街の中を人々が楽しく泳ぎ回るという願いがイメージされています。現在は2005年度改訂版が千里山駅改札口に置かれています。
 地域情報ポータルサイト「千里山.NET」は、商店街ガイドマップのコンセプトをトータルな住民生活情報にまで拡げ、WEBサイト化したものです。
 
       
2002年
平成14年 
「大きな古時計」 往年の名曲がポップシンガー平井堅歌唱により大ヒットしました。ちなみにこの曲の訳詞をされた保富庚午(ほとみこうご)は千二小学校の卒業生であり、故郷の千里山の家を偲びながら訳したとお聞きしています。又、ベーシストでプロデューサーの亀田誠治は千三小学校卒業生です。千里山縁りの歌として「千里山.NET」でもオープニングに使わせて頂きました。 大きな古時計
       
2003年
平成15年
まちづくり協議会 平成15年11月1日に千里山自治会や千里山商栄会、そして千里山まちなみを考える会の有志30名で設立されました。
会の目的として『本協議会は、大正時代に郊外住宅の理想郷として開発され、また戦後西日本初めての公団住宅が建設されるなど伝統ある千里山地域をより美しく、豊かで生き生きとしたまちにするために、地域の住民や商業者、その他関係者が協力しながら行政や関係機関、専門家と協働して、安全で快適なまちづくりの方策を検討し、次世代によりよい環境の千里山を引き継ぐことを目的とします』が唱われています。
 年会費1,000 円で誰でも参加でき、イベントやフォーラムなどへの協賛や「まちづくりニュース」の発行など活発に活動しています。
まちづくり協議会
       
2004年
平成16年
ちさと図書館 平成16年に千二小学校の旧木造校舎を活かした復元教室や、新しいマルチメディア設備もある千里山・佐井寺図書館(ちさと図書館)が建てられ、周辺住民のみならず広域の情報センター的な位置づけの施設として、サークル・ボランティアやイベント・展示会など多目的な利用が活発にされています。
 千里山の歴史ある木造校舎や旧講堂を引継ぎ景観に相応しい建築として、第25回大阪まちなみ賞の特別賞を受けています。
 大正15年と刻まれた石柱校門もそのままに残され、その横には卒業記念樹として植えられた大きなクスノキが、今も変わらぬ雄大な姿で立っています。
 
     
2005年
平成17年
グルービーブルーム 関西大学の学生達の主催により、音楽を通じての世代間交流とまちの活性化を目的に、音楽祭「千里山グルービーブルーム」が礼拝堂や第一噴水を中心に、区内のお店やマーケットを巻き込んで開催されました。時あたかも千里山の最も晴れやかな桜の季節に合わせ、新入生の人の流れも作られ一日中楽しみました。  音楽祭
       
2005年
平成17年
たそがれコンサート 吹田第一中学校を会場にして、一中吹奏楽部や一般住民の演奏家と子ども達が集まり、夏休みの一日を音楽と楽しいアトラクションで交流を図ろうと始まりました。周辺自治会や学校関連の団体が主催となり、まちづくり協議会や商栄会も後援し街をあげたイベントになりつつあります。  
     
2005年
平成17年
Rua Feliz
(幸せの街路)
千里山に発して「ドイツ国際平和村」を支援している、ボランティア・グループの「ペイフォワード倶楽部」が、千里山平和市と称してフリーマーケットを行ったのが始まりです。その後「Rua Feliz」と改称し、街全体のイベントとして実行委員会方式の運営で継続されています。第一噴水や千里寺境内などをメイン会場に、関大生ボランティアや千里山消防支部などの参加・支援も得て、家族で楽しめる広がりを持ってきています。 フリーマーケット
       
2005年
平成17年
活性化シンポジウム 吹田市産業労働室主宰の商業活性化シンポジウムが千里山図書館で開催されました。経営コンサルタントの基調講演の後で、7人の住民パネリストが意見や提案を述べ、最後は聴衆からの質問を交えて、パネルディスカッションが活発に行われました。千里山商栄会や千里山まちづくり協議会が共催の形で積極的に真剣な討議に参加しました。  
       
2005年
平成17年
まちづくり懇談会 日本住宅公団の千里山団地立て替え計画に基づき、千里山駅周辺の再開発が現実問題として上がってきています。吹田市の都市整備部の呼びかけで、住民参加による懇談会方式で、まちづくりの方向性を議論していくことになり、「千里山駅周辺まちづくり懇談会」が発足しました。
 月に一度の全体会と、その地均しの意味を持つ代表世話人会で議論し、その成果を「Machi Com 通信」で住民に報告を行っています。 「Machi Com 通信」は「千里山.NET」の「まちづくり懇談会 」のページでも閲覧できます。
 千里山団地の桜並木(自然環境)の保存や、バイパス道路案や文化踏切の歩行者専用化など、大きな変化が計画されていますので、住民の皆さんもそれぞれに注目しなければならない会議と言えます。
まちづくり懇談会
     
2006年
平成18年
千里山.NET 地域情報ポータルサイト「千里山.NET」の運営が始まりました。商店街の情報ばかりではなく、自治会やまちづくり協議会、サークルやボランティア、イベント情報や街の歴史・文化などのコンテンツまで、トータルな千里山の情報発信と住民の交流の場を、街の内外に提案することを目的としています。千里山駅やお店のご協力で、URL告知カードを配布しています。
 提携ブログ「千里山ブラウズ」も合わせて、タイムリーな街の情報や意見を発信しています。平成19年に産経新聞の特集記事「ブロガー白書」で取材紹介されました。
 また同時に阪急電鉄のブログコミュニティー「バーチャル駅長」内でスペシャルブログ「千里山.NETブログ」も展開中で、千里山のコアな情報を阪急沿線一帯に広く発信しています。
 
       
2006年
平成18年 
千里山作法集の刊行 千里山まちづくり作法集・千里山の暮らしと住まい』が千里山まちづくり協議会のプロジェクトとして発刊され、好評を博し内外からも注目されました。美しく快適な住環境を次世代に引き継ぐための指針として、現在の景観を紹介しながらテーマを分かりやすく提案しています。1,000部の冊子は完売し、現在CD-ROM版WEB版が公開されています。  
       
2006年
平成18年
凛風館の竣工 関西大学千里山キャンパスに総合学生会館メディアパーク凛風館が竣工しました。美容室やレストランそして購買ショップなどは、学生だけでなく近隣住民にも開放されています。本来千里山キャンパスを貫くメインストリートは、公道で自由な往来ができますので、時には犬を連れた散歩姿なども見られます。冬には凛風館前の広場で、イルミネーションの点灯も行われるようになりました。  
       
2007年
平成19年
大阪まちなみ百景 府民のアンケートによる大阪に於ける優れた街並み景観に、吹田市から4つ、そしてその内の2つの場所が千里山から選定されました。「千里山団地の桜並木」と「花とみどりの協定」です。「花とみどりの協定」は千里山住宅地の一郭で、道路に面した家々が花や緑を絶やさず、自然にあふれたまちづくりを協定している素晴らしい地域です。  
       
2007年
平成19年
スプリングコンサート 吹田市立第一中学校の吹奏楽部は、北摂の音楽コンクールにおいて優勝するほどの実力クラブです。体育館で春の定期演奏会が開催されることになり、父兄会はもちろん周辺住民もその素晴らしい演奏と、フレッシュなパフォーマンスを楽しみ聴き入りました。 音楽祭
       
2007年
平成19年
千里山ブログ みんなで発信!! 千里山ブログ」が開設され、誰でもが街の情報発信を自由に行えるネット・インフラができました。パソコンはもちろん、携帯電話からも写真を添付しメールでモブログ投稿できる手軽なシステムです。「千里山.NET」と「千里山ブログ村」のコラボレーションにより、ブログ作成やインターネット、そして初心者のためのパソコン操作指導など、多面的なバーチャル千里山の実現を目差しています。
 モブログ投稿用のQRコードを、千里山のお店や自治会掲示板などのご協力で公開しています。手軽な携帯電話での皆さんからのご参加お待ちしています。
 
     
2007年
平成19年
落語「ちさと亭」 千里寺の由緒ある本堂を会場に、上方落語寄席のイベント「ちさと亭」が、9月16日午後2時から盛況に開催されました。千里山まちづくり協議会の主催により、関西大学の落研OBの「グループいっせき」にご協力頂き、地域初の試みです。将来的には現役の学生達の参加も促し、“住学連携”を深め交流していければと思います。 文化祭
       
2007年
平成19年
千里山大正ロマン 関西大学博物館の簡文館で秋に開催された「吹田を知る」というオムニバス展で「千里山大正ロマン」をテーマに、千里山の大正から昭和初期にかけての資料や生活用具などの展示が行われました。
千里山に向かう(北大阪電鉄)・千里山に暮らす(千里山住宅地)・千里山で遊ぶ(千里山花壇)・千里山で学ぶ(関西大学)の4つのブロックの展示は、学生の奮闘の成果がよく現れた興味深いものとなりました。また後に図録として纏められ住民に配布され、貴重な街の歴史資料となりました。
翌2008年には展示会のコンテンツを電脳博物館と称しブログ化され、新たな調査・発信の場として期待されています。
『図録』

『千里山大正ロマン』電脳博物館

       
2007年
平成19年
千里山こだわり展 千里山まちづくり協議会主催による秋の楽しい展示会が、ちさと図書館の復元教室で始まりました。人と人の繋がりや交流を感じさせる、住民のこだわりの“お宝”を持ち寄り展示して、そのエピソードや手に入れた経緯などを大いに語り合うなかで、街を暖かく元気にしていこうという趣向です。
期間中は阪口市長なども立ち寄られ、興味深そうにご覧になりました。概ね好評のようで住民の間では来年の準備がもう始まっている気配です!
文化祭
       
2008年
平成20年
『プラット沿線紀行』 8月30 日朝日新聞夕刊の特集企画『ぷらっと沿線紀行』で阪急千里線、そしてかつて終着駅であった千里山、また関大前駅周辺などが紹介されました 。掲載写真も夕闇に浮かぶ第一噴水や屋上からのパノラマなど、千里山の楽しい街並みがご覧になれます。
担当された宮崎記者も千里山にお住まいで、思い入れの深い取材記事になっております。
阪急千里線
       
2009年
平成21年
ダンパク in 千里山 10月18日千里山平和カーニバル「Rua Feliz (幸せの街路)」の開催に合わせ、ちさと図書館で「団地博覧会(ダンパク) in 千里山」が行われ、近隣住民はもちろん全国からも団地マニアが集いました。
給水塔や団地生活そして団地トリビアなど、こだわりの研究発表やトークショーに続き、千里山団地開発の工事着工から竣工までを描いた記録映画が上映され、旧千里山駅など当時の里山に囲まれた風景や子供達の遊ぶ姿も偲ぶことができました。
午前中には千里山団地を巡る見学会も行われ、街並み案内にもなり楽しんで頂きました。参加された奥居武さんから写真提供をして頂き、WEBアルバムを作成しましたのでご覧下さい。
WEBアルバム
       
2010年
平成22年
元気 ! プロジェクト 千里山商栄会とNPOなどの各種団体そして地域の有志が集まり、千里山を活性化していくために千里山『元気 ! プロジェクト』が発足しました。
商店街の情報やイベント、また住民の生活に役立つ情報を鋭意発信していきます。年に5回のパンフレットの発行を始め、WEBサイトも開設しました。
 
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